映画研究塾トップページへ

映画批評

「顔のないスパイ」の批評は2012年2月27にシネコンで2回続けて見た後、翌28日に3回目を見て3月1日に提出されたものです。マイケル・ブラントはこれ以降、劇場映画を一本も撮れていません。この批評はそれを予告する内容となっています。撮らなくていい者が映画を撮り続け、撮らなければならない者が映画を撮ることができない、それが映画の世界です。2023年9月10日 藤村隆史。

「顔のないスパイ」(2011)マイケル・ブラント~映画と「保守主義」について~映画の梟(ふくろう)は立ち込める夕闇とともにはじめて旅立つ~2012年3月1日

番号で大まかなシークエンスを、その下に批評を入れる。

1不法移民たちがメキシコからアメリカへ入る。
●パトカーらしきものがいきなり走って来てロシアのスパイ以外は四方八方に離散する。国境警備隊の車をロシアの仲間が奪って着替え、警備隊の死体を棄てたところまては分かるのだが、草むらに横たわっている多くの死体が逃げようとした当の密入国者たちなのかそうでないのかについての説明は存在しない。その答えは映画が終わっても分からない
●クローズアップの入り方もやや乱暴で、このシークエンスにおいて取り立てて秀でたものを見出すことはできない。

2テレビ討論(6か月後)、、
●ロシアへの脅威が間接的に語られている。

3テレビ討論をホテルの部屋で見つめる議員から彼をモニターで監視しているFBIの捜査官たちへ。議員が謎の人間に路上で殺されたあと、CIAの長官であるチャーリー・シーンが現場に現れる。
FBIの捜査官が監視中、裸電球を直してその拍子に電球が揺れて光が揺れる。まったく無意味な行動であることはしばらくしないと分からない。→ 電球が消耗してそのまま電気が消えてしまい、その隙にターゲットが逃走してしまう等の物語が展開する可能性は捜査官が電球を揺らした時点では不明であり、少ししてからやっとこの行動が無意味であったことが遡って我々にわかる、ということ。
●チャーリー・シーンが野次馬の影からまったき反心理的にぬーっと出現してくる→水たまりに反射したチャーリー・シーンの逆立した姿が映し出される。そのあとFBIの捜査官がチャーリー・シーンをして「長官、、」と言うが、それがFBICIAかどちらの長官かは分からない。その後捜査官に電話があり「FBIの長官から手を引くように言われた」というセリフで初めてチャーリー・シーンはCIAの長官だとあとになって間接的に分かる
●狭い路地の殺人後の現場を最後に斜め俯瞰から撮ったロングショットがモノの見事に決まっている

4リチャード・ギア少年野球を観戦→女性(ニコル・フォレスター)から時間を聞かれるが「時計がない」と答える。
●ここでリチャード・ギアには家族がいないらしいこと、子供好らしいこと、そしてどういうわけか時計をしていないことが間接的に描かれている。リチャード・ギアに話しかけているのはなにかしら特徴のありそうな女性だが、この女性は具体的には何の関係もなく、ただリチャード・ギアの状況を間接的に描くためのマクガフィンであったことが後になってわかる
星条旗の大きなクローズアップから少年野球のシークエンスは始まる。バックネット裏からクレーンで下降しながらのロングショットの中で子供がボテボテのライト前ヒットを放っている。そういう映画なのかと。

5リチャード・ギアが帰宅すると部屋の暗闇の中にチャーリー・シーンが待っていて驚く。リチャード・ギア、慌てて電気をつけたあと「カシウス」が生きていたことを告げられる。
●夜、車で帰宅したリチャード・ギアが家の前のポーチを上がる瞬間のさり気ないロングショットへの引きが瞳を癒す。
●暗闇の中、体を斜めに傾けながら驚いて見せるリチャード・ギアの驚きの反応は、らしいといえば彼らしい。ジョン・ウェインやケーリー・グラントはこういうことはしない。
●暗闇→電気をつけるというさり気ない映画的運動。

6リチャード・ギア、CIAの会議室へ行きトファー・グレイスと初対面。ここで「ブルータス」が生きていることをチャーリー・シーンから知らされる。
●白い壁を背景にした会議室の画面がうまく撮れていない。特に書類を抱きかかえたトファー・グレイスのミディアムショットの背景の白い壁にデジタルのあの波を打った黒い小さな粒が露骨に波打ち画面を殺している。初めてこの作品を見た時はこのシークエンスを見て「ダメなのかな、、」と脳裏によぎる。全体を通じて画面の鮮明さに欠けている。
●エレベーターから降りた廊下の奥にピンボケの星条旗が立てられている。
●会議室にも星条旗が立てかけられ、それを背後にトファー・グレイスはしゃべっている。

7リチャード・ギア、夜に帰宅し、鍵の束を右手でチャラチャラさせながら回転椅子の微妙な位置の違いに何者かの侵入の気配を感じ、窓の外に出て行く車を確認したあと、チャーリー・シーンに電話をかけるが不在
●電話の相手が誰なのか、秘書なのか留守電なのか何の説明もない。なにかおかしい。

8翌日、ホワイトハウスから二本の大通りを挟んだ露天商の前でリチャード・ギアがチャーリー・シーンとコーヒーを飲む。
●ホワイトハウスの星条旗が揺れている。

9昼、帰宅したリチャード・ギアは封印していた時計を引き出しから取り出すと、回想①が始まる→リチャード・ギア、パリのアメリカ大使館でチャーリー・シーンと会い任務を授かる。
●大使館前の壁、館内の廊下、チャーリー・シーンの執務室、さらに執務室に飾ってあるレーガンの写真のバックにそれぞれ星条旗が見られる。

10 FBIのオフィスのトファー・グレイス、同僚(クリス・マークエット)と話している時にかかって来た電話を取り、トファー・グレイスが今回のチームに入ったことを知らされる。
●建物の外に無数の星条旗が並んでいる。
●トファー・グレイスのデスクの上の右のほうにも小さな星条旗が立てられている。

11車でトファー・グレイスと二人で刑務所へ行き、元ロシアのスパイ「ブルータス」に会う→ラジオを渡して買収する。
●橋を行く車を航空撮影のロングショットからゆったりと撮ってこのシークエンスは始まる。こういうショットはあると嬉しい。車中、トファー・グレイスはリチャード・ギアに対して「ロシアのスパイにとって引退後のアメリカは天国だろう」という。この言葉の意味はあとから響いてくる
●ロシアのスパイ、「ブルータス」=スティーヴン・モイヤーとの対話。最初は頑なだった「ブルータス」をラジカセ?を餌(モチベーション)回想②が始まり「カシウス」の訓練の様子が流される。話が具体化してきて家族の話に及びそうになったところでと聞いていたリチャード・ギアが会話を遮り刑務所を出る。
●そもそもあのラジカセは何なのか。どうしてあんなに古いのか。それともあれはラジカセなのかラジオなのか。中から流れてくる曲が餌なのか、それとも機器本体が餌なのか、あるいはカセットに録音された曲が餌なのか。おそらく曲のようにも見え、そうだとするとあの本体の趣旨はカセットとということになるだろうが「ブルータス」が電池を飲み込む直前、彼はつまみをひねって音を消している。するとラジオなのか。それは映画が終わっても分からない
●ただひとつ明らかなのは、あの物体は「ブルータス」が電池を飲み込むためのマクガフィンだということだ。マクガフィンであるからこそその「中身」はどうでもいい。だがこれがマクガフィンであることはあとになって初めて分かるのであり、「ブルータス」にそれを渡した時点ではまたそれがマクガフィンとは分からない。この映画は最初から最後までこうした手触りで進行してゆく。
●逆光のシルエットの中に巧みにリチャード・ギアが隠され続けている。最良の照明ではないが、、、
●回想時のロシアの教官は「カシウス」ではない。そもそもあのリチャード・ギアには決して見えない男は「カシウス」として撮られているのか、、それは映画が終わってもわからない

12「ブルータス」が独房で電池を飲み込み病院へ運ばれ、逃走→地下駐車場でリチャード・ギアと遭遇する。
●あの「ガッツポーズ電池飲み」が凄い、、、
●セリフなしでどんどん進んでゆく。
●病院のシークエンスは、「ブルータス」が台車で運ばれて手術室に入るまでと、電池を吐き出した後医者を殴ってから病院を出るまでがそれぞれ1ショット、計3ショットで撮られている。特に「ブルータス」が警備員を倒して銃を奪うシーンはドアの外に隠されていていきなり警備員が診察室の中に突き飛ばされてくるという撮り方をしている。こういう撮り方をするものか、、、
●駐車場で「ブルータス」がリチャード・ギアの正体を知った時、膝をついて正座のような格好になり、リチャード・ギアのローアングルからの撮影となる。「ブルータス」のスティーヴン・モイヤーが凄い。

13「ブルータス」を始末したその足で夜、リチャード・ギアがトファー・グレイスを処分しようとしてグレイスの家の前で隠れていると、哺乳瓶を持った妻のオデット・アナブルが出てきて家族の存在を知り、殺人を諦める。
●これまたセリフなし。このあたりで日本の批評家は我慢できなくなる。
●トファー・グレイスは初めてノーネクタイのラフなシャツ姿で出てくる。対してリチャード・ギアは終始ノーネクタイだ。

14家のベッドに仰向けになって時計を触っているリチャード・ギアを俯瞰から捉えたショットのあと、回想③が始まる→フランスでリチャード・ギアが路上を歩いている男をワイヤーで殺す。
●セリフ小。このへんで日本人の批評家はアウトだろう。どこの本にも書いてないことが映画的に進行し続けているからである。

15リチャード・ギアがトファー・グレイスを川辺の広場へ呼び出し事件から降りろと説得する。
●トファー・グレイスの横を通り過ぎるサングラスの男たち。

16FBIのオフィスで統計学の同僚(クリス・マークエット)が「チームに入れてくれ」とトファー・グレイスに懇願している時に電話が鳴り「ブルータス殺害」事件の知らせが入る。
10と同じようなパターンで電話がかかって来ている。場所に拘る映画だ、、、

17「ブルータス」殺害現場である地下駐車場の現場検証の時、トファー・グレイスがリチャード・ギアに「カシウス」は現場に出没するはずだと推論、その直後に不審なロシア人らしき野次馬を発見、二人で追いかける
●ロープの張られた外部の野次馬を撮ったショットの異様な不自然さ。
●最初リチャード・ギアは現場で隠れていて、しばらくすると警備員の男たちと談笑している。どの道出てくるのだから隠れている必要はないはず。しかしリチャード・ギアは隠れている。こういうところの手触りがこれまでのハリウッド映画と違う。物語の語り口における従来の制約・リミッターから自由なのだ。
●「カシウス」は現場に来るはずだというトファー・グレイスの推論の真偽はあとになってから分かる。

18鉄骨の積み上げられた迷路で男を見失う→腹が減ったと笑う
●クレーンでゆっくり上昇して鉄骨を俯瞰から撮ってゆくことでその信じ難き大きさが登場してくる。
●この追想劇は物語的には何の意味もない。だが何の意味もないとはっきり分かるのは、もっとあとになってから(映画の中の人物が嘘をついている可能性があるから)

19トファー・グレイスの家に招待されたリチャード・ギアがディナーを楽しむ→トファー・グレイスおしっこに立ち、リチャード・ギアとオデット・アナブルとが二人だけの会話をする。
●前の鉄骨のシークエンスは、このシークエンスを起動させるために存在していることがここにきて分かる。ロシア風の男を見失い、リチャード・ギアが「手配しろ!」というとトファー・グレイスは「あれはカシウスのタイプに一致しないから手配の必要はない」という。「じゃあ何故追いかけたんだ」とリチャード・ギアが聞くとトファー・グレイスは「逃げたから何か悪さをしたいたはずだ」と答える。リチャード・ギアは「ふんっ」といつものように鼻で笑いトファー・グレイスは「腹減ったね」と笑う。ふたりのあいだに親密の空気が流れてくる。そこで初めてリチャード・ギアはディナーに招待されることになる。親密性の前提として協働がある。共に走り、協働をさせることで距離を縮めてゆく。その協働が「徒労」であればあるほど距離は映画的に縮んでゆく。(ただしあの逃げた男がほんとうに物語的に何の関係もないのかどうかはこの時点では未だはっきりとはしていない。4の女や11のロシアの教官のようにはっきりとしない人物を登場させるので、それはそのまま宙ぶらりんになってしまう)
●リチャード・ギアが見事な夕陽のなか車から降りて来てオデット・アナブルを「マム」と呼んで意気投合した後、リチャード・ギアと腕を組んで歩いてきたオデット・アナブルが(こういうのが良い)、芝生の上に落ちているスケボーみたいなものを拾うショットがさり気なく入っているのだが、その小道具には物語的に何の意味もない。だがそれが何の意味もないと分かるのはもっとあとになってからである。
●女の子(エラ・モルトバイ)が絨毯の上でまま事をしている。ソファーに座っているリチャード・ギアに半分背中を向け、遠すぎもせず、かと言って近すぎもしない距離でもって女の子は遊んでいる。この微妙な距離感覚、位置、向き、。照れくさいのであまり近づくことはできず、しかし構ってもらいたいのでわざとリチャード・ギアの見える微妙な場所で遊んでみせる。この作品のレベルからすると、この女の子の「距離」は、指導によるものだと断言してよろしい。
●外で飲んでいる時、トファー・グレイスが突如「おしっこ」に立つ。これはリチャード・ギアとオデット・アナブルとを二人きりにさせるためのマクガフィンとしてあるきっかけだが、これがマクガフィンだと分かるのは、トファー・グレイスの「おしっこ」に物語的な意味は存在しないと分かった時であり、その時点はこのシークエンスよりももう少し後にずらされている
●家のポーチには星条旗が掲げられている。

20ディナーから帰宅したリチャード・ギアは、ポーチのあたりから辺りを見渡し、何かを警戒している。
●リチャード・ギアの見た目のショットとして映し出された夜の隣家の構図の区切り方が余りにも具体的に過ぎ物語的に破綻をきたしている。あれはもう少し抽象的に撮らなければならない。だがこのショットが余りに具体的で物語的におかしいとそ分かるのは、もう少しあとになってからである。

21CIAの会議室でロシア担当の分析官により「ボズロスキー(ティマー・ハッサン)」というロシアのスパイの映像が流されリチャード・ギアが「こいつ知っている」と確認した後、このサナバビッチと「ふんっ」と鼻で笑う。
●リチャード・ギアはよく鼻で笑う。ふんっ!
●どうもこの会議室は美術に失敗したのか明るい画面で撮ると悉く失敗している。
●会議が始まる前の夕陽に包まれた外の噴水の所に多くの星条旗が並んでいる。

22二人でへんてこなシャッターのあるアジトへ行く。まず落書きのある鉄のドアを開け、シャッターを上げ、「304」と書かれた情報提供者のアジトの中にリチャード・ギアが一人で入って行き「ボズロスキー」の居所を知っている者の情報を得て出てくる。
●取り残されたトファー・グレイスが窓辺に立っていると、ガラス窓の外に垂れているロープかなにかのシルエットが風に揺れてコーン、コーンとガラスにぶつかってくる。何の意味もない。だがこれに意味がないと分かるのは少しだけあとになってからである
●続いて周囲から女のわめき声だか何だかよく聞き取れない雑音が聞こえて来ると、リチャード・ギアが中から出てきて二人はシャッターを閉めて出てゆく。中の様子はまったく描写されていないので果たしてリチャード・ギアが相手を脅かして情報を得たのか(それを見た女の悲鳴があの声なのか、、)、そうでないのかサッパリ分からない。それにどうしてあのシャッターが必要なのかもまったく分からない。映画が終わってもわからない

23アメリカで一番汚い河のへりに建っているプレハブの窓から逃げ出て来た売春婦(スタナ・カティック)をリチャード・ギアが脅かす→トファー・グレイスが女に子供の写真を見せて落ち着かせ居所を聞くことに成功。彼に言わせると「心の交流」→リチャード・ギアはやってきたロシアの男を「協力しないと妹の頭に二発ぶち込んでからお前を始末する」と脅かし「ボズロスキー」の所へ連れて行かせる。彼に言わせるとこれまた「心の交流」。
●バットで洗濯物を叩いている女に道を聞いている。バットで叩く必要があるのか。文化の話をしているのではなく「映画」の話をしているのだが、あれをバットで叩く必要があるのか。その後星条旗のかかっているプレハブを正面に見て左に曲がり、土の山を上がって行くとローアングルになり画面いっぱいに強風に揺れた大木の無数の葉っぱがガンと迫ってくる、そこまでを1ショットで撮っている。さらに洗濯物として干されたブラジャーやパンティ、スカートなどが色とりどりに揺れている。おそらくここは「風のシークエンス」のようなものとして考えられ撮られているのだろう。
●その後トファー・グレイスがプレハブの中に入って行くとステレオの音響が大きくなり、リチャード・ギアがロシア語で訳の分からない言葉を吐いた後、窓から出て来た女をリチャード・ギアは暴力的に責め立てて行く。中のトファー・グレイスがステレオのボリュームを落とすと女の悲鳴が聞こえて来たので外へ出る。通常ならここでサスペンスは、中へ踏み込んだトファー・グレイスについて始まるべきはずがそうではなく、外のリチャード・ギアで始まっている。ことごとく「ずれ」ている。そもそもリチャード・ギアの女への態度も過剰であるばかりか、その後のトファー・グレイスと女が風に揺れる垣根をバックに木のテーブルを挟んで仲良く座っているショットもなにかおかしい。女の座り方というか、あんな風にゆったりと佇んでしまってよいのだろうか。
その後、車で呼び出された男がとぼとぼと歩いて来て、二人の前を通り過ぎて階段に座っている女の所まで歩いて行って何かを耳打ちして、それからまた戻って来て初めてふたりと話を始める。この「耳打ち」にも何の意味もない。だがそれが分かるのはもっとあとになってからである。
22とこの23のシークエンスがその典型だが、この映画の撮られ方の基軸は「物語」ではない。場所とか風とか痛めつけられる売春婦だとか、はたまた売春婦に子供の写真を見せることだとか、あの木のテーブルの質感と背後の木の葉の揺れ具合だとか、、そういうところからイメージが湧いて運動がスタートしている。リチャード・ギアが女を川辺で締め上げる時、極端なローアングルのトファー・グレイスが「そのへんにしろ」というショットが入って来るのだが、そのローアングルの背後でさきほどの大木の葉が強風に見事に揺れている。こんなショットはオーソン・ウェルズの「イッツ・オール・トゥルー」以外の何ものでもないではないと言ってしまいたくなるのだが、あの女が川べりにあのような格好で組み敷かれたのには、明らかにこの「風に揺れる葉」というものを撮りたいという願望があったとしか私には思えない。だからこそそれには極端なローアングルが必要であり、そのために女はあんな格好にされる必要があったのだと。こうして物語の整合性はその都度先送りされてしまい、結局映画が終わってもわからない、という、まるで「三つ数えろ」のような状態を招いたところでこの映画はそれを無意識的にか意識的にか性向として頓着していない。そもそもあのコールガールが知っていたことといえばあの案内人の電話番号だけであり、従ってこの女はそもそも存在しなくてもよかったにも拘わらずそれが存在してしまう。彼女が起動させるのは底なしの運動であって物語的な辻褄ではない。だからこそ物語の整合性はその都度先送りされてゆくことになり、剥き出しの運動だけが浮遊してしまう。

24海辺の工場で「ボズロスキー」と会う。案内の男を殺したあと、リチャード・ギアは消える。
●ここもヘンだ。まず工場で車を止める時、案内の男の車とリチャード・ギアの車のあいだにどうして一台必要なのか、、二台は一台の車を挟んで止められている。あんな一台はまったく必要ないはず。まさかあれが「ボズロスキーの車」ということなのか。それは映画が終わっても分からない
●雨の中建てられた即席の白いテントの下の捜査本部でFBIの長官と話していたトファー・グレイスが手前に歩いて来て、傘も差さずに去ってゆくリチャード・ギア「らしき」銀髪の男に携帯で電話を入れてみるが反応はない。だが電話が鳴った瞬間、一瞬後ろ姿の男の歩行スピードが遅まったようにも見える。男はそのまま消えてしまう。電話をしたあとトファー・グレイスは笑っているように見える。だがその「笑う」という行為は周到に消されているようにも見える。
●どうしてあんなテントを張る必要があるのか。まるで南北戦争だ。

25FBIの吹き抜けのガラス製の通路で歩きながらトファー・グレイスが統計学の男(クリス・マークエット)に協力を要請する。
1ショットで撮られている。歩くスピード、会話の速さ、そして場所、すべてが呼応している。協力を要請された瞬間、

26FBIの一室で統計学の男(クリス・マークエット)にトファー・グレイスが、リチャード・ギアが「カシウス」である可能性について話す。。
●こういう部屋に入ると光の力が落ちてしまう。

27FBIのオフィスでパソコンに向かっているトファー・グレイスの元へ統計学の男(クリス・マークエット)から電話が入る。クリス・マークエットは目星の男を見つけたというが、トファー・グレイスはそれは模倣犯で間違っていると却下する。
●ほぼ無意味なシークエンス。それがどうして必要なのかは映画が終わってもわからない

28図書館で危うく落下しそうになったオデット・アナブルをリチャード・ギアが助け、警告を発する。
●降りてこようとするオデット・アナブルをリチャード・ギアは静止し、敢えて上下のアンクルで会話を切り返すことで警告をしている。
●図書館の色合いがよい。本の色あいそのものが「美術」になっている。

29FBIの一室でトファー・グレイス、論理統計学で「真実」を発見する。
●まず紙に「ポールはカシアスではない」と書いたあと壁に貼られた写真を調査して「でない」を消す。セリフなし。ひたすら見せる。

30建物から出て来たトファー・グレイス、路上のごみ箱に暗号の書かれた新聞を棄ててコーヒーハウスに入ると、彼をつけていていたリチャード・ギアが拾って読む。
●どうもよくわからない。私の映画的記憶からするとこれはトファー・グレイスからリチャード・ギアへ当てられた暗号のメッセージとして露呈するはずである。トファー・グレイスはリチャード・ギアが自分を付けていることを予想していて敢えて彼にメッセージを渡したのだと。それがインテリジェンスというものの筈だ。物語的には。だが映画ではそうではなく、トファー・グレイスはリチャード・ギアに読まれることを意図していなかったことがあとになって分かる。演出の稚拙さそのものが映画の稚拙に直結しないのは何故か。映画というものは結局のところ人間が撮るものであるが、そこに施される「制約」について我々は常に疑ってかかる柔軟性が求められている。ある物語的な制約にそのまま従う時、映画的な運動が失われるとしたならば、作り手はそのルールを破ってよろしい、というのが映画の批評の在り方ではないか。

31夜の自宅でオデット・アナブルが、図書館でされたリチャード・ギアからの警告を夫のトファー・グレイスに伝えるが夫は無視し、外出するために車に乗ろうとしたところ、ワイパーに挟まったリチャード・ギアの妻と子供の写真を見つける。
●図書館でリチャード・ギアからあれだけ激しい警告をされたオデット・アナブルが、このシークエンスでは、それを忘れたかのように、赤ん坊を抱いて微笑みながら出て来てしまう。これはおかしい。心から美しい笑顔で出て来てしまうのだ。だがほんとうにおかしいのか。逆に言うと=映画的に言うならば、このシークエンスは極めて反心理的に始まっている。

32ここからCIAの会議室で分析官の男と話をしているリチャード・ギアと、FBIの一室でリチャード・ギアからもらった写真を調べているトファー・グレイスとが幾度かカットバックされる。
CIAの会議室は三度目だが、夜のこのシークエンスの照明はそれなりに成功している。通じてこの作品はもう少し画面がクッキリとしていればよかったのだがデジタル処理の段階でしくじっているように見える。

33回想④が入る→ジュネーブの電話ボックスで妻子の危機を知らされたリチャード・ギアが車で家に駆けつける。
●リチャード・ギアが車から降り家の中に入って庭へ出て芝生に座りこむまで1ショットで撮られている。キャメラはリチャード・ギアとの距離を倫理的に保っている。これが河瀬直美には分からない。

34トファー・グレイス、FBIの執務室で「真実」を知る。
●知った瞬間のトファー・グレイスの説明ゼリフは余計。

35リチャード・ギア、工場で「ボズロスキー」を待ち伏せる。そこへトファー・グレイスから電話が入る。
●真実を知った、という趣旨の電話が入る。

36トファー・グレイス、前に行った奇妙なシャッターのアジトで男を脅かし「ボズロスキー」の居所を吐かせる。
●何度見てもこのアジトのシャッターは無意味に過剰な無意味性である。

37リチャード・ギアと「ボズロスキー」のカーチェイス炸裂。
●セリフなし。

38トファー・グレイス、リチャード・ギアを援護し「ボズロスキー」は倉庫の中へ逃げ込む。ここで今度は逆にリチャード・ギアが「真実」を暴くことになる。
●あのごみ箱に捨てられた新聞は30年前のロシアからの暗号であることが分かるが、どうして30年前の暗号である必要があるのか、3回見てもよくわからない。
「ボズロスキー」が倉庫へ入ると、ベンチに座っている労働者と目が合う。労働者の主観ショットで「ボズロスキー」の左ひざの破れたズボンの血と弾痕が眼に入り、二人のあいだを幾度かキャメラは切り返される。この労働者はその後「足」しか出てこない。「ボズロスキー」に殺されたのだろうが、しかしここまで見事に省略をするものか、、、

39倉庫の中でのアクション。●鏡をひとつの中心に置いてアクションが撮られている。割れた鏡に向かって「分裂」したリチャード・ギアが突進してくる。「上海から来た女」か、、、「燃えよドラゴン」の方か、、、●リチャード・ギアの最期は余りにもあっけなく、しかし余りにも有意味だ。 

40倉庫での現場検証でトファー・グレイスは二人の長官に事件の経緯を説明して外へ出る。
●倉庫を出る時、長官に確か「船を調べてきます、カシウスとも関係しますので」というセリフを言うと、キャメラはクレーンで大きく上昇して画面の左にタンカーを映し出す。これがよくわからない。何故ならトファー・グレイスは「飛行機で」ロシアへ行くと言っていたはずであり、この時点ではまだロシアへ行く選択肢の中にいたトファー・グレイスが、どうして「船を、、」などという無意味な発言をこの場面でする必要があるのか。
●倉庫の外でチャーリー・シーンは、「CIAに来ないか?」とトファー・グレイスを『リチャード・ギアの後継者』として誘っている。二重スパイを二重スパイの後継者として肯定できてしてしまう物凄い映画だ。

41ラストシーン 
●屋根の上にリスが走っている。その理由は、映画が終わってもわからない
●セリフなし。
●トファー・グレイスがネクタイをしているかどうか確かめたが首から下が一度も画面に入って来ないのでわからない。リチャード・ギアを折角ああまでして「ノーネクタイの男」で貫き通したのだから、彼の「後継者」となるトファー・グレイスはここで絶対に「ノーネクタイ」を誇示すべきなのだが、、、どういうことなのか。ネクタイをしていたのではない。していたかしていなかったか、ラストシーンで彼の首から下を撮っていないのである。まさか故意なのか、、、、

■保守主義

おそらく確実に「誤解」されることを承知で書くとして、この「顔のないスパイ」という映画は「保守主義」の映画である。「誤解」とは何か。例えるならこの映画の中に過剰さを伴って度々出てくる数多くの星条旗の存在は、保守主義を物語的に推測させはしても「保守主義」を映画的に露呈させはしない。これをして「保守主義の作家」と決めることが「誤解」という日常頻繁に批評界に見受けられる現象である。

続けよう。

映画の「保守性」とは、その都度先送りされてゆく物語の整合性と運動との関係にある。

カール・マンハイムはその著書『イデオロギーとユートピア』(中公クラシックス)において保守主義の特長として次のようなものを挙げている。一部要約すると、、、

『過去が意味を持ち、時間が様々な価値を生み出す。あらゆる現存するものは、それがはだいに生成してきたという理由だけで豊かな、 積極的価値を持っている。視線が過去に向くとともに、過去が忘却から救い出され、あらゆる過ぎ去ったものが現在も存在していると実感できる。時間に対する体験は、想像力によって立体的奥行きを獲得する。』(411頁等)

この映画には既に羅列したように「おかしなこと」が沢山ある。だがそれはほんとうに「おかしいこと」なのか。生成している事実をすべてその瞬間に、あるいはそれが生成すらする以前に概念や理念に閉じ込めてしまわなければ受け入れることのできない狭量な眼差しがこれらの出来事をして「おかしいこと」に仕立て上げているのではないか。

マンハイムはこうも書いている。

『あるものが存在するという理由だけで、それは既に高い価値を持っている。『ある!』ということのうちには、賛嘆すべき感情がこめられている。』(410)

19でトファー・グレイスがディナーの最中で突如「おしっこ」と席を立って周囲を唖然とさせた後彼は「だって事実だからしょうがない」という趣旨のことを言って去ってゆく。これが保守の手触りである。23でリチャード・ギアに責めたてられた女は、物語的には存在してもしなくてもよかった。だがそんな女があそこにいてあのような運動を遂げながら、ローアングルでの怖ろしいまでの風が画面を揺らし、最後はトファー・グレイスの子供たちの写真を見て微笑んでしまう。それこそ『ある!』ということのうちにこめられた賛嘆すべき感情である。

『保守主義的意識は、はじめてあとからかれらの理念を発見する。』(404)

社会主義のように予め計画を立てて『未来』を見渡すことはしない。「保守主義」にあるのは過去から持続して培われてきた弛まない現在の生成に対する「賛嘆」である。「保守主義」に「未来」は存在しない。「未来」は映画のあとからやって来るからである。映像と向き合うとはそういうことだ。映像には「現在」しかない。回想での「過去」は映像の「過去」ではない。映像には時制がない。「過去」も「未来」も絶対に描くことはできない。そこに「未来」があると思う人間は決まって映像ではなく「言語」によって映像を押さえつけている。

マンハイムが「ロマン主義的保守主義」として援用するヘーゲルはこう書いている。

『いずれにせよ哲学は、いつもやってくるのが遅すぎるのである。』(404)

28のシークエンス・図書館でオデット・アナブルが梯子から落ちそうになった後、リチャード・ギアがオデット・アナブルに警告を発するシーンが上下のアングルで切り返されている。この場合①リチャード・ギアの警告をオデット・アナブルとの上下のアングルから撮りたいが故に②リチャード・ギアはオデット・アナブルが梯子の下まで降りてくることを制止し、だからこそ③オデット・アナブルは梯子から落ちそうになり、④従ってオデット・アナブルは梯子に上り、⑤だから図書館は存在する。23における風のローアングルの検証からしてもそう考えるのが筋だ。もちろんこの「理解」はあとからやってくる。⑤は④により、④は③によって、③は②により、②は①によってあとから初めて「理解」される。マクガフィンはあとからやってくる。そのためには何よりも①を①そのものとして感じることのできる感性が必要となる。平坦な切り返しに頼るのではなく、何とかこの警告のシークエンスを場所的、空間的に印象的なものに仕上げたい。だがここを①→②→③→④→⑤で撮ってしまうと①は②との関係における「理解」の連鎖の鎖に絡め取られてしまう。だからここを⑤→④→③→②→①で撮ることで「理解」を先送りさせ『ある!』を露呈させる。それが「保守の感性」である。

『ミネルヴァの梟(ふくろう)は立ち込める夕闇とともにはじめて旅立つ』

「理解」はあとからやってくる。

現実は「理解」を置き去りにして生成し続けてしまう。哲学は、理念は、概念は、物語は、いつも現実のあとからやってくる。それを最高度まで純化したのが映画という「現在」のメディアである。「顔のないスパイ」は、まるで「未来」を映画の中に読み取らずにはいられない主知主義者たちから大なたで殴り殺されるのを覚悟しながら撮られているかのように見える。

保守主義に対するのは以下の有様である。

理念や観念で社会を作り上げること。一挙にして黄金世界を作るという発想。革命。政治の難儀さ、その曖昧さ、判り難さに向き合うことに耐えられない精神。(常識としての保守主義45頁。嫉妬。「青写真」に沿わない層への偏狭さ。(常識としての保守主義55頁。排他性、硬直性。独立、威信。(常識としての保守主義76頁。正義。平等(多様性を損ねるから)。執着は偏狭をうみ寛容を失わせる。(常識としての保守主義242

 インテリたちが何故「映画」というメディアが理解できないのか、それは「映画」というメディアが「保守主義」だからだ。彼らは先送りされる「理解」に我慢ができない。だから「現在」のメディアである映画に無理矢理「未来」という計画を貼り付け、映画をみずからの知識に従属させる。彼らは図書館のシークエンスを瞬時に「理解」しようとするのであれが逆から撮られていることを感じることができない。それはあとになって初めて出て来るからだ。では先送りされた「理念」から残されたものはなにか。それが「ある!」であり、あらゆるインテリたちが「無価値なもの」として日々無視することで置き去りにされているところの「現実」である。「あとからくる理解」に耐えられない彼らの性質は、基本的に「批評」には向いていない。「おかしい」というカッコつきのできごとを無邪気におかしいと言えてしまうだらしなさが批評を殺している。

「顔のないスパイ」は、あらゆる「理解」を置き去りに走り続けてしまう。それが「理解」として運よくあとからそれなりのまとまりを以て現すとしても、それはせいぜい「意味のなかったこと」であったり、あるいはただのマクガフィンであったりといった驚愕の不親切さとしてでしかない。その有様は、殊更意図的に「難解」な映画を撮って芸術だとほざいている凡庸な「インテリ映画」とは根本的に異なっている。「保守主義」の映画の難解さとは結果的なそれであり、みずからの性向に忠実にあることでもうひとつの出来事(理解)を断念する決断の内にその画面は生きづいている。それに耐えるのが批評であり、映画という「現在」のメディアを語ることの残酷さである。凡庸な批評家は一目散で「理解」へと飛びつきみずからの読書歴をひけらかすことしかしていないことに気づいていない。

「ある!」をその根底に絶えず更新してゆく映画はその主人公の思想や行動の「善悪」とは関係なく撮られてゆく。「顔のないスパイ」においては、あろうことか二重スパイから二重スパイへと時代が受け継がれてゆく。

我々は、あらゆる現在が、次の現在へと受け継がれていく様を西部劇において描き続けた「保守主義」者を知っている。彼の映画が美しかったのはその「理解」でも「哲学」でも、はたまた「思想」ですらない。生成する現実を「ある!」として肯定することのできるしなやかな感性が、彼の映画の画面に爆発的な力をもたらし、そこに立ち会った観客たちを、「その場において」感動させたのである。彼らはその場で「理解」したのではない。あとから何かを「理解」しようとしてある者は「批評」を始め、蠢きの中で置き去りにされた「ある!」を生涯追い求めるのである。そんな「保守主義」者の撮った多くの映画には、男たちの帰郷=GO HOMEの物語が描かれていた。故郷とは時間であり、理屈ではなく「ある!」の弛まぬ蓄積である。
「顔のないスパイ」は、かつて偉大なる「保守主義」者が実践した「語り継ぐこと」を受け継ぎながら、最期に主人公、リチャード・ギアの口から、自らの「後継者」であるトファー・グレイスに対してこう言わせて終わっている。

GO HOME

映画の梟は立ち込める夕闇とともにはじめて旅立つ

「理解」はあとからやってくる。

2012.3.1 映画研究塾.藤村隆史